第6回「多摩巡り記録と紀行」 | 榎本 奎介 | ||
道 草「は け の 道 を 辿る」 | 権藤 卓也 | ||
随 想「国 分 寺 に 詣 でて」 | 金田 和友 | ||
トピック 「国 分 寺 碑 紹介」 | 榎本 奎介 | ||
コ ラ ム「小 金 井 小 次 郎」 | 榎本 奎介 | ||
コメント「細目・横目・魚の目」 | 細田利三郎 |
26番立川山正楽院 | 27番 福寿山観音寺 | ||
28番武野山東福寺 | 道草「旧国分尼寺跡」 | ||
29番医王山国分寺 | 道草「殿ヶ谷戸庭園」 | ||
30番貫井山真明寺 | 31番 天神山金蔵院 |
第6回「多摩88ヵ所巡り」は気温30度を超え薄日の射す夏のような天気の中、28名の参
加を得て予定通り9月2日に開催された。
午前中に廻った三つのお寺では、それぞれ本堂に上げて頂き、住職さんから直々にお話を
伺うことが出来た。 「西国立」駅前の第二十六番正楽院では、住職さんから大正年間に辺鄙な所であった立川
市の外れの現在地にお寺を建立するに至るまでの地元の人々の苦労された話、毎日住職 自らが数珠、筆、箒を手に持って実践されていること、それを表す印としてつい最近三体の 小さな小僧像を庭に設置されたこと(6月19日の下見の時には未だなかったもの)など
興味深い話を拝聴した。最後に住職さんの先導で「南無大師遍照金剛」を三回唱えて本堂
を後にした。 中央線の踏切を北に越えてから、辻さんの先達で車の走らない緑豊かな立川市栄緑地を
通り抜け、その先の小高い森の中にある第二十七番観音寺に到着した。 聖観世音菩薩座像
で第二十八番東福寺に到着したのは予定より40分遅れた昼近くであった。本堂に案内され
て暫く待つと、住職さんが登場、開口一番私ども一行の到着が遅いのであこちらに電話して 確認して待っておられたとのこと。お気遣いに感謝する。 大僧正への昇格証
国分寺の薬師堂
国分寺崖線(はけ)を巡り歩いて到着したのが、第三十番真明寺である。ここは境内に萬
両がよく生育し「萬両寺」ともいわれていたが、最近お参りに来たついでにその萬両持ち帰る 人がおり、お寺では新しく苗木を植えて補っているとのこと。予定より遅れたためか、内陣を 下から拝んで次を目指す。 薬師道を通ってガ−ドを通った先に、第三十一番金蔵院がある。お寺ではお堂の建立中で
境内には工事用の資材があり雑然としていた。プレファブの寺務所で納經帳を頂く。 有名な白萩も未だ咲いてなかった。
今回のお寺巡りではお寺の対応には竜頭蛇尾との感想ではあるが、そのお陰で時間は上
手く調整されて、ほぼ予定通りに打ち上げ会場に向かえた。
西国分寺駅から第二十九番国分寺に至る道筋には、史跡通り、旧鎌倉街道、国分尼寺跡、 国分寺跡と歴史の歩みを味わえる所が数多くある。 中でも国分尼寺跡は国分寺市により最近綺麗に整備され、往時の隆盛ぶりをはるかに偲ぶ
ことが出来た。 午後からは国分寺崖線(はけ)に沿って、真姿の池、お鷹の道、殿ヶ谷戸公園、東京経済大
学構内の新次郎池、貫井神社と湧水池を巡った。 6月の下見の時には水は涸れて、水量は乏しく情けない姿であったが、夏の長雨のお陰で
今回湧水池はいずれでも水量は豊かであり、その姿を皆さんに案内出来ほっとする。 殿ヶ谷戸公園の緑と池
第三十番真明寺の先には名園と言われる滄浪泉園(そうろうせんえん)がある。
国分寺崖線(はけ)の湧水池群
第三十一番金蔵院を後にして、小金井小次郎墓、小金井神社、谷口邸を巡って、皆様お疲 れの中第6回「多摩88ヵ所巡り」は終わりとした。 小金井小次郎については別掲コラム参照。
1名が先に帰られたが、懇親会は「武蔵小金井駅」前の「日本海庄や」で27名の参加で行
われた。暑い一日の疲れを冷たいビ−ルで癒し、次回の予定、来年度の計画等話合い次回 の再会を約して帰路に着く。 皆様暑い中、2万5千歩の長い道のりを一日本当にご苦労さまでした。
以 上
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「はけ」というのは、国分寺崖線とよばれる段丘崖のことです。古多摩川の侵食によって、武
蔵野にできた台地の段丘と、その一段低い立川段丘の間の崖をさし、西は立川市の北 東付近から、東は世田谷区の野毛町までのびています。崖の高さは10から15mぐらい。
武蔵野台地は青梅を最高点として東になだらかに広がる扇状地で、水は地下に浸透してし
まうので水利は全くありません。 東京経済大構内「新次郎池」
今回は国分寺の真姿湧水群をはじめとして、ずっとハケ下の道を歩くことが出来たのは幸
せでした。 9時、南武線西国立駅に集合、すぐ駅前の二十六番正楽院を振り出しに札所巡りが始まり
ました。 ここもすっかり住宅地化していて、広い道路を北へひたすら歩くこととなりましたが、中央線
を横切ってからの道は,住宅地の中でも両側に緑が一杯整備されて気持ちの良い道となりま した。アベリアの植え込みが続くところはいい香りが漂い、その他ムクゲ、萩の花も開き始め ています。 27番観音寺の六地蔵
高い木々に囲まれて、オナガが数羽にぎやかに囀って飛び回っていて、ミンミン、ツクツク
の時雨。観音寺からはまた住宅地のみちを歩いて、鉄道技研の通りへ。 大きな桜の街路樹がずっと続く広い道の左側にひかりプラザがあり、この中にある鉄道技
研の技術展示を見学。リニアモーターカーなどの詳細などが興味をひきました。 ここから程なく国立駅。JR中央線を一駅だけ利用して西国分寺駅で下車して、いよいよ後
半の行程にはいります。 西国分寺駅の北側を右へ坂を下ると恋ヶ窪用水があって、透明な水が流れています。
すぐそばの由来を説明した看板によると、その昔玉川上水から分取して灌漑用水として随
分役に立ったとのことです。そのすぐ先に二十八番東福寺があり、大変近代的な明るい寺に なっているのに驚きました。境内に傾城の墓があるのですが、何かあわれで可哀相でした。 駅に戻り今度は南の方へ旧鎌倉街道の切通しをだらだらと下って、国分尼寺跡へと向かい
ます。広場に礎石のほかは何も残っていません。ここから東へ武蔵野線をくぐって畑の道をし ばらく行くと草原になっているが国分寺跡の大規模な礎石があり、これを横切ってゆくと現在 の二十九番国分寺に到着します。 この寺の境内の前庭が万葉植物園になっていて、いろいろの草木が植栽されそれぞれに
立札があって説明が記載されています。草は季節があるので全く影も形もないものもあり、オ ミナエシやハギのように美しい花をつけているものもありで、なかなか面白い庭園です。
ここで昼食を済ませていよいよ「はけの道」の始まりです。
国分寺からは「お鷹の道」に入ります。国分寺の境内から涌き出る清流に沿った遊歩道で
すが、徳川将軍が鷹狩の際通った道で、個人の屋敷内にあり、一般公道ではないのだそうで す。 家々の間を穏やかな心の和む何か懐かしい感じの清流を眺めながら歩きます。この流れ
には蛍が生息しているとのことです。間もなく左から真姿の池湧水群からの豊富な流れが合 流します。この湧水群は環境庁指定の「名水百選」に選ばれていて水質水量ともに都内最高 だそうです。 容器持参で水を汲みに来ている人たちが何人かいました。お鷹の道の清流に沿って曲がり
曲がり行くと、やがてJR国分寺駅前にでます。
そのすぐ右手に殿ヶ谷戸庭園がありました。岩崎家の旧別邸。谷戸の地形を生かした広い 庭園で、ハケ下には湧水と池があり大きな鯉が悠々と泳いでいました。萩のトンネルはまだ 花が咲いていませんでしたが、野草園では珍しくオトコエシの白い花を見ました。また、9月2 日というのに、ヒガンバナが満開でびっくり。
殿ヶ谷戸庭園を出て、小金井方向へ広い道をゆっくり下っていくと、途中の交叉点の街路樹 の枝に鳥の巣があって雛が二羽いました。みんなで騒いでいたのですが、親鳥は不在。 キジバトで、雛ももうほぼ一人前の羽が生え揃っていて巣立ちも間もないのではないでしょ
うか。 途中、東京経済大学のキャンパスの裏口から入って,新次郎池を見学。ハケ下の湧水の
池で、大学の構内なので何の細工もなく、自然の泉と池がそのまま保たれているいい環境で した。 貫井神社と赤い欄干
あとで調べてみたら、 「土地柄にふさわしく湧水でいれたコーヒー・紅茶を出す店」で、使う
水は女店主が毎朝真姿の池まで汲みに行くのだそうです。 コーヒーの味はまろやかで一味 違うのだそうです。 多摩31番天神山金蔵院 山門
ハケ上の小金井駅前でめでたく打ち上げとあいなりました。今日は天気に恵まれて、最高
気温はほぼ30度。ひどい汗で大変でしたが、冷たいビールのうまかったこと。 今回はハケの湧水をくまなく歩いた一日でした。
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国分尼寺と国分寺の跡に立ち、その規模の大きさを実感すると共に、千数百年前の朝廷
の遠大なポリシーに想いを馳せた。 とつ国から伝来してきた仏教を「外国の神」として受け入れ、それを国教として流布し、国の
政治理念の中枢に据えようと考えた指導者達のことを思うひと時だった。
真姿の池に端を発する疎水沿いに「鷹の道」を未だ古えの想念で歩き始めたら、疎水の
中で少女達がザリガニ採りに興じていた。 突然少年の頃の事と故郷を想い起こした。昨年の大患を乗り越えて、幸いなことにこうして
3万歩を楽楽歩く事が出来るようになった。偏に主治医と妻のお蔭と感謝しつつ,この好体 調の時に帰郷しようと思った。
故郷の霊地を巡り、自分を見直し、人生の後半に向かう心の足を鍛えて来たいと思う。国
分寺を訪ね、往古を想い、我が行く先を思う一日だった。 完
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天平十三年(741)三月、聖武天皇は災害・疫病・凶作等で疲弊した国を、仏教の力で救
おうと、国分寺建立の詔を出された。ここ武蔵国分寺もその時に建てられたものである。 それが、元弘三年(1233)新田義貞鎌倉攻略の時、兵火に遭ったりして烏夕に帰した。
現在残るものは礎石と布目瓦の破片のみとなった。薬師堂前に重要な碑がある。以下に
その碑文を書き下ろし文で紹介する。
在昔(むかし)、聖武の朝、釈教(仏教)を崇信し、詔を天下に下し、国毎に僧尼二寺を肇
造す(初めて造った)。 一は金光明四天王護国の寺と曰ひ、僧員二十人。一は法華滅罪の寺と曰ひ、尼員十
人。国分寺と総称す各(おのおの)封田有り、国司其の租を歳収し、資給して之を養う。 僧尼の員、欠あれば随って之を補う。凡そ国に水旱の変(洪水とひでり)あらば祷請して
之を救ふ。 朝夕香火の事を掌り、仁王最勝王等の経を誦読し、災兵を弥(つくろ)ひ罪疾を遠ざけ、
国家の福祥を祈る。歴朝因って承け、其の制を改めず、史籍に徴(証拠)あり。爾来千有余 載(千有余年)、陵谷(山や谷)変遷し、諸国に其の跡を存するは十に二、三なし。
先王、郡県の制、詔令ある毎に太政官符を諸国司に下し、国司承って之を宣布す。
国司の治むる所を古くは国府と称す。諸国往往、今に至るも猶府中と称する者あり。国分
諸寺は県官置く所にて、壱に(もっぱら)国司の節制(とりしまり)を受く。故に寺跡の今に存 するは、多く其の国の府中の界(区域)に在ると云ふ。 楼門から国分寺本堂を望む
吾が護国精舎(国分寺)は法運の隆に当り、堂観壮麗にしてまことに巍然(ぎぜん)たる
一大刹(大きな寺)なりき。壊を成す(破壊される)に時あり。 元弘の乱に一旦焚蕩し(焼失し)、新田氏再造の功(黄金三百両を寄進して薬師堂を再
建したこと)成ると雖も、兵革の世なれば終に古に復せず。尋(つ)いで復た消沈荒涼する こと四百余載なり。 国 分 寺 薬 師 堂
斯の野の広莫たる、前世、奥羽の道の経る所にして、草莽(くさむら)は天に際し、月日は
其の間に出入す。虎狼は後に従ひ、盗賊は前に邀(むか)へ、行旅は白日も警戒・畏懼(い く)せざる莫し。 方今(ただいま)四海は東に朝し(世の中は徳川幕府の時代となり)、鯨波(とき)は揚が
らず(戦いがない)。率土の内(日本国中)、戸口(戸数と人口と)は殷実し(さかんにみち て)民力普(あまねく)存す。地にして墾さざるなく、田にして播かざるなし。 古より草莽広莫としてむさ支野と称するの地、今、尽く(ことごとく)良田数千万頃(けい)と
なる。東に偏ること数十里、牙の縁界(いりくんだはての地)は半ば文王(中国周王朝の始 祖武王の父、古代の聖王の模範とされる)の囿(庭園)となり、邑落相比し(村村がつらなっ て)、鶏狗の声は被此(あちらこちら)に聞ゆ。 大道は砥の如く(平らかであり)にして都城に東通し、往来は絡繹たり(人通りが絶えな
い)先王の盛世に復すると雖も、今日の至理(最上の道理)を踰(こ)えず。 国 分 寺 石 碑
百六の数ありて(厄運の年に遭うこと)、劫火(大火)寇(害)をなす。威力亡ぶる若(ごと)
く、壌空(土と空)救はず、千祀(千年)寥ばく(むなしくはるか)として、草木鬱茂たり、茫々 たる曠野、豺狼(山犬とおおかみ)夜に吠ゆ。 紺苑(寺の別名)は淪没し(衰え滅び)、樵蘇(きこりとくさかり)は首を回らす(ふりかえっ
て昔を思う)。至誠は必ず応へ、願言は旧に復す。於戯(ああ)諸仏、我に霊祐(神のたす け)を降せよ 。 宝暦丙子春三月 摂津(の生まれの)服雄撰東都(の生まれの)河保寿書以上が全文で
ある。撰文の〔服雄〕は有名な儒者服部仲英(服部南郭の女婿。名は元雄、号は白貴、摂 津西宮の人)、書の〔河保寿〕は江戸の書家河原井台山(葛烏石の門人。名は保寿)であ る。 |
文政元年(1818年)、下小金井村の名主関家の二男として生まれる。府中の親分藤屋
万吉に目をかけられ、次第に勢力を伸ばす。 天保十一年(1840年)、小平の田折一家と小川一家になぐり込みをかけ、「二塚明神
前の大喧嘩」といわれる騒動を起こして知られた。 佃寄場での服役ののち、安政四年(1857年)、三宅島に流された。在島中、井戸を堀
り、旱魃に悩む島民を救ったという。 慶応四年(1868年)、赦免後は新門辰五郎の弟分となり、山岡鉄舟にかわいがられた
といい、盛時には、関東一円の身内の数は三千人を越えたという。 歌舞伎「辰巳の小次郎」で知られ、浪曲、講談にも取り上げられた。明治十四年没、行
年六十四。
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第6回「多摩八十八ヶ所巡り」は立川市、国分寺市、小金井市に広がる緑の多い武蔵野台
地、国分寺崖線(はけ)が舞台、六つのお寺の観音巡り。今回も天候に恵まれ、幹事の皆さ んの骨折りでつつがなく巡拝できて、感謝感謝・合掌である。 行程や参加者など、正規の紀行文は幹事役が出稿されると思うので、私はいつもの勝手
な雑言を記した。駄文・ご海容のほどを。 T.この地域の地理的条件は
@ 武蔵野台地と野川から多摩川をつなぐ河川段丘で、湧水箇所が多くあり、このようなとこ
ろを「はけ」と呼ぶが、そのはけ沿いを北から南へ約15キロの道程だった。 河川段丘は立川から大田区田園調布付近まで30キロほど連なっていて、台地上は古くか
らの完成した住宅地、段丘下は新興住宅地に色分けされる。今回はその中の北半分といっ たところである。 A 巡拝の道中は、武蔵野の面影が残る緑の多いところで、樹木は大木が目立ち(観音寺な
ど)、保存樹に指定されているものが目に付いた。今の時期、花木はサルスベリ、芙蓉、木 槿(栄緑地)が盛り、イチジク・石榴の実がたわわに実っている家もあって、もぎ取って食べ たい衝動を抱いた。
小さな実がついた林檎は珍しく、柿・びわや梨の実は間もなく収穫期になる状態。旧鎌倉
街道の雑木林の中にはクヌギの実が沢山落ちていた。 国分寺から お鷹の道へ
なく開花)コース などなど、いずれも興味大の散策だった。
U.ご住職の説話から
C 住職の哲学。住職は24時間寺にいるので、前々から自分の心の中で温めていたことを
決めて実行し、4〜5年継続している。
筆 地 蔵
V.巡拝で知ったいくつかの物語りや伝説
D 500羅漢=釈迦の弟子の500人の羅漢。周梨槃特(しゅりはんどく)は、仏滅後、遺教
結集のため来会し、釈尊の弟子衆の一人に加えられた。性格は愚鈍、後に大悟したという。
中国、インドにもあるが、食用とするのは日本だけ。刻んで豆腐にのせ、インドの友人に勧
めたら匂いをかいで顔をしかめ、そこだけ箸で除けられた。今の時期は秋ミョウガ。花は県 内あちこちで咲く。みょうが 食べると馬鹿になる 転じて愚か者、馬鹿者 E 傾城の墓
東福寺(国分寺市西恋ヶ窪)の境内にある。この辺りはかつて宿場町で、板東武士と花魁
の恋物語が聞かれたが、これはその一つ。 東福寺の傾城の墓
の人たちは、その死を憐れみ、葬ったところの塚に松を植えて墓標としたという。その後数
百年を経るに従い、松は枯れ、塚は平らにされてそれが何処だったのか分からずじまいとな った。 そこで、登内の出身者、6世宝雪庵可尊翁は、旧跡が無くなるのを惜しんで同士と相談し、
ここに墓標を立て再び松を植えて傾城の墓とした。その後枯れたので今回復元松を植え、併 せてこの脾を立てその由来を記し墓標とともに不朽に伝えようとした。 今もなお 朽ちせぬ名にぞ 新たなれ 松の操の 傾城の墓
W.横目(参加者の視点などから)
お参りをしたことが大事であって、「いつ」お参りしたかは問題ではない(従って、当寺では
日付けは入れない)。納経帳は亡くなった折りに、お棺に納めて「あの世」に携えて行くもの だ。最近は札所めぐり参拝者からの希望により、日付けを入れる札所も出てきた。
来月予定の札所でも、日付けは「入れません」と言うところもあれば、「入れてもいいです
よ」と言うところもある由。(辻さんには、毎回、納経帳をとりまとめていただいており、改めて お礼を申し上げます) G 金田さんから懇親会の席で 吟行俳句のご披露
この坂を 越えれば いよいよ日本海 (駅そばの飲み屋がこの名前)
素晴らしい 友に恵まれ ただ合唱 DAA 心の足を 鍛えけり
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