<ダイヤネット>




「多摩88ヶ所巡り」と道草
第6回紀行

平成15年9月2日

目  次

 第6回「多摩巡り記録と紀行」  榎本 奎介
 道 草「は け の 道 を 辿る」  権藤 卓也
 随 想「国 分 寺 に 詣 でて」  金田 和友
 トピック 「国 分 寺 碑 紹介」  榎本 奎介
 コ ラ ム「小 金 井 小 次 郎」   榎本 奎介
 コメント「細目・横目・魚の目」  細田利三郎




第6回多摩巡りアルバム明細
納経(御朱印)帳付き

 26番立川山正楽院  27番 福寿山観音寺
 28番武野山東福寺  道草「旧国分尼寺跡」
 29番医王山国分寺  道草「殿ヶ谷戸庭園」
 30番貫井山真明寺  31番 天神山金蔵院







第6回「多摩巡行記録」

榎本 奎介

開催月日:平成15年9月2日(火) 集合場所:JR南武線「西国立」駅前 


「JR西国立駅」
09:07
第26番正楽院
09:10
09:40
第27番観音寺
10:18
10:50
「ひかりプラザ」立ち寄り
国立駅
11:35
西国分寺駅
11:39
JR中央線
第28番東福寺
11:45 
傾城の墓
12:07
史跡通り、旧鎌倉街道、
黒鐘公園、国分尼寺跡経
第29番国分寺
12:50
昼食休憩
文化保存館、万葉植物園
13:30
薬師堂、国分寺碑等見学
お鷹の道、真姿の池経由
殿ヶ谷戸公園   
14:00
入場料団体65歳以上50円
14:40
新次郎池(東京経済大構
内)
第30番真明寺   
15:10
貫井神社経由
15:20
薬師通り経由
第31番金蔵院
15:40
境内工事中
15:50
小金井小次郎碑、
小金井神社
15:55
16:20
はけの道経由
小金井駅
16:40
日本海庄屋(懇親会場)
解散
18:00

              




第6回「多摩巡り」紀行
                               
榎本 奎介

 
 第6回「多摩88ヵ所巡り」は気温30度を超え薄日の射す夏のような天気の中、28名の参
加を得て予定通り9月2日に開催された。
 
 今回はJR南武線「西国立」駅前を午前九時にスタ−ト、立川市、国分寺市、小金井市に広がる緑の多い武蔵野台地、国分寺崖線(はけ)を歩き、

 午前中には第二十六番正楽院、第二十七番観音寺、第二十八番東福寺を、

 昼食休憩は第二十九番国分寺境内で、午後には第三十番真明寺、第三十一番金蔵院と六つのお寺を巡り、ゴ−ルのJR中央線「武蔵小金井」駅前で打ち上げ解散とした。


 午前中に廻った三つのお寺では、それぞれ本堂に上げて頂き、住職さんから直々にお話を
伺うことが出来た。
 
 「西国立」駅前の第二十六番正楽院では、住職さんから大正年間に辺鄙な所であった立川
市の外れの現在地にお寺を建立するに至るまでの地元の人々の苦労された話、毎日住職
自らが数珠、筆、箒を手に持って実践されていること、それを表す印としてつい最近三体の
小さな小僧像を庭に設置されたこと(6月19日の下見の時には未だなかったもの)など


 興味深い話を拝聴した。最後に住職さんの先導で「南無大師遍照金剛」を三回唱えて本堂
を後にした。
 
 中央線の踏切を北に越えてから、辻さんの先達で車の走らない緑豊かな立川市栄緑地を
通り抜け、その先の小高い森の中にある第二十七番観音寺に到着した。

     聖観世音菩薩座像
 本堂で座卓を挟んで七十一歳の住職さんから、祖父に
当たる先々代が当時荒廃していたお寺を再興された経緯

 その時に壊れていた珍しい「聖観世音菩薩座像」(一説
には室町時代の作であるとか)を浅草の仏師に依頼して
今考えると、いい加減な修復をしてしまったこと、

戦後宅地の開発に伴い檀家も順調に増え、現在は安定し
たお寺の経営が行われていること等を伺った。

敷地の制約もあってかやや奥行きが浅い本堂に安置され
ている「聖観世音菩薩座像」を拝み、由緒ある山門を眺め
国立駅に向かった。

 「西国分寺」駅前から府中街道の裏道を徒歩5分あまり

で第二十八番東福寺に到着したのは予定より40分遅れた昼近くであった。本堂に案内され
て暫く待つと、住職さんが登場、開口一番私ども一行の到着が遅いのであこちらに電話して
確認して待っておられたとのこと。お気遣いに感謝する。
                                            大僧正への昇格証
 お寺巡りの功徳を説かれ、時間の制約もある
のでご自身が四国八十八ヶ所を歩いて巡られた
体験を簡単に語られた。

 最後に厨子の前に置かれていたご自身の大僧
正の昇格証を嬉しそうに一同に見せ、

 68歳という最年少での昇格であることを強調さ
れたのが印象に残った。

          国分寺の薬師堂
  第二十九番国分寺では本堂に上がって拝ま
せて頂いてから、参加者一同好きな場所で昼
食、休憩、見学とする。

 十名近くは本堂の裏にある「薬師堂」まで登っ
て、その境内の木陰で蝉しぐれの中昼食をと
る。

「薬師堂」の前には宝暦年間に建てられた多摩
第一級と言われる「武蔵国府中国分寺碑」があ
る。(別掲トピック参照)
 

  国分寺崖線(はけ)を巡り歩いて到着したのが、第三十番真明寺である。ここは境内に萬
両がよく生育し「萬両寺」ともいわれていたが、最近お参りに来たついでにその萬両持ち帰る
人がおり、お寺では新しく苗木を植えて補っているとのこと。予定より遅れたためか、内陣を
下から拝んで次を目指す。
 
 薬師道を通ってガ−ドを通った先に、第三十一番金蔵院がある。お寺ではお堂の建立中で
境内には工事用の資材があり雑然としていた。プレファブの寺務所で納經帳を頂く。
 有名な白萩も未だ咲いてなかった。
 
  今回のお寺巡りではお寺の対応には竜頭蛇尾との感想ではあるが、そのお陰で時間は上
手く調整されて、ほぼ予定通りに打ち上げ会場に向かえた。


 恒例の道草では、午前には鉄道総合技術研究所
の前にある「国分寺ひかりプラザ(女性センタ−)」を
訪れた。

 その一階の一隅には「鉄道総合技術研究所展示
場」があり、山梨県でテスト開発中のリニアモ−タカ
−の開発の経緯を縮小モデルと解説で眺める機会
を得た。

 機会あれば孫を連れてまた来たい所である。

 西国分寺駅から第二十九番国分寺に至る道筋には、史跡通り、旧鎌倉街道、国分尼寺跡、
国分寺跡と歴史の歩みを味わえる所が数多くある。

 中でも国分尼寺跡は国分寺市により最近綺麗に整備され、往時の隆盛ぶりをはるかに偲ぶ
ことが出来た。
 
 午後からは国分寺崖線(はけ)に沿って、真姿の池、お鷹の道、殿ヶ谷戸公園、東京経済大
学構内の新次郎池、貫井神社と湧水池を巡った。

 6月の下見の時には水は涸れて、水量は乏しく情けない姿であったが、夏の長雨のお陰で
今回湧水池はいずれでも水量は豊かであり、その姿を皆さんに案内出来ほっとする。

  殿ヶ谷戸公園の緑と池
  殿ヶ谷戸公園では格子天井の紅葉亭から眼下に次郎弁天池をゆうゆうと泳ぐ鯉を眺め、 秋の紅葉の景色の素晴らしさに思いを馳せた。
 
 また、新次郎池では木立に囲まれた中で冷 たい水が五ヶ所から湧き、滔々と流れており、暑い日中のお寺巡りの途上一息つくことが出来た。

 生憎火曜日が休園のため案内出来なかったが、国分寺崖線(はけ)に沿って

 第三十番真明寺の先には名園と言われる滄浪泉園(そうろうせんえん)がある。
                                   
                                    国分寺崖線(はけ)の湧水池群
 波多野承五郎氏により作られた庭で、大正八年にこの庭に遊んだ犬養毅元首相により孟子の言葉を引いて命名されたもの。

 現在は小金井市が管理している。 

 このように国分寺崖線(はけ)の湧水池群は魅力多いところである。

 第三十一番金蔵院を後にして、小金井小次郎墓、小金井神社、谷口邸を巡って、皆様お疲
れの中第6回「多摩88ヵ所巡り」は終わりとした。

 小金井小次郎については別掲コラム参照。

 1名が先に帰られたが、懇親会は「武蔵小金井駅」前の「日本海庄や」で27名の参加で行
われた。暑い一日の疲れを冷たいビ−ルで癒し、次回の予定、来年度の計画等話合い次回
の再会を約して帰路に着く。

 皆様暑い中、2万5千歩の長い道のりを一日本当にご苦労さまでした。
                                 
                                                 以    上








道 草 「はけの道」 を辿る

権藤 卓也

 
 「はけ」というのは、国分寺崖線とよばれる段丘崖のことです。古多摩川の侵食によって、武
蔵野にできた台地の段丘と、その一段低い立川段丘の間の崖をさし、西は立川市の北
東付近から、東は世田谷区の野毛町までのびています。崖の高さは10から15mぐらい。
 
 武蔵野台地は青梅を最高点として東になだらかに広がる扇状地で、水は地下に浸透してし
まうので水利は全くありません。

       東京経済大構内「新次郎池」
 南東側の標高60mから50mの崖線の下
から浸透した地下水が涌き出て、池や流れ
を作ります。

 第1回の深大寺の池や、前回の府中の「郷
土の森公園」の池もそれでした。

 (そういえば郷土の森公園のハケ上茶屋で
食べた「名物ハケ上団子」はうまかった!)
 

 これらの水は日立中研を水源とする野川
に集まり、やがて多摩川に合流します。
 
 今回は国分寺の真姿湧水群をはじめとして、ずっとハケ下の道を歩くことが出来たのは幸
せでした。


 9時、南武線西国立駅に集合、すぐ駅前の二十六番正楽院を振り出しに札所巡りが始まり
ました。

 ここもすっかり住宅地化していて、広い道路を北へひたすら歩くこととなりましたが、中央線
を横切ってからの道は,住宅地の中でも両側に緑が一杯整備されて気持ちの良い道となりま
した。アベリアの植え込みが続くところはいい香りが漂い、その他ムクゲ、萩の花も開き始め
ています。
                                   27番観音寺の六地蔵
 トチの木が何本か混じっているのが, 何故
かみんな葉が茶色になっていて、まわりの緑の
中で異様な感じ。

 この緑の道は最初は西町緑地、そのうち栄緑
地と名前が変わって約1kmほど。

 ほどなく二十七番観音寺につきます。石段を
登ると両側にそれぞれ六地蔵がまつられ、古び
た山門をはいると落ちついた古いお寺でした。

 
 
  高い木々に囲まれて、オナガが数羽にぎやかに囀って飛び回っていて、ミンミン、ツクツク
の時雨。観音寺からはまた住宅地のみちを歩いて、鉄道技研の通りへ。

 大きな桜の街路樹がずっと続く広い道の左側にひかりプラザがあり、この中にある鉄道技
研の技術展示を見学。リニアモーターカーなどの詳細などが興味をひきました。

 ここから程なく国立駅。JR中央線を一駅だけ利用して西国分寺駅で下車して、いよいよ後
半の行程にはいります。

 西国分寺駅の北側を右へ坂を下ると恋ヶ窪用水があって、透明な水が流れています。

 すぐそばの由来を説明した看板によると、その昔玉川上水から分取して灌漑用水として随
分役に立ったとのことです。そのすぐ先に二十八番東福寺があり、大変近代的な明るい寺に
なっているのに驚きました。境内に傾城の墓があるのですが、何かあわれで可哀相でした。

 駅に戻り今度は南の方へ旧鎌倉街道の切通しをだらだらと下って、国分尼寺跡へと向かい
ます。広場に礎石のほかは何も残っていません。ここから東へ武蔵野線をくぐって畑の道をし
ばらく行くと草原になっているが国分寺跡の大規模な礎石があり、これを横切ってゆくと現在
の二十九番国分寺に到着します。

 この寺の境内の前庭が万葉植物園になっていて、いろいろの草木が植栽されそれぞれに
立札があって説明が記載されています。草は季節があるので全く影も形もないものもあり、オ
ミナエシやハギのように美しい花をつけているものもありで、なかなか面白い庭園です。 

 天然記念物「万葉植物園」
植栽草木の立札

  ここで昼食を済ませていよいよ「はけの道」の始まりです。

 国分寺からは「お鷹の道」に入ります。国分寺の境内から涌き出る清流に沿った遊歩道で
すが、徳川将軍が鷹狩の際通った道で、個人の屋敷内にあり、一般公道ではないのだそうで
す。

 家々の間を穏やかな心の和む何か懐かしい感じの清流を眺めながら歩きます。この流れ
には蛍が生息しているとのことです。間もなく左から真姿の池湧水群からの豊富な流れが合
流します。この湧水群は環境庁指定の「名水百選」に選ばれていて水質水量ともに都内最高
だそうです。

 容器持参で水を汲みに来ている人たちが何人かいました。お鷹の道の清流に沿って曲がり
曲がり行くと、やがてJR国分寺駅前にでます。
 
 真姿の池湧水群
殿ヶ谷戸庭園の池で鯉が悠々と

 そのすぐ右手に殿ヶ谷戸庭園がありました。岩崎家の旧別邸。谷戸の地形を生かした広い
庭園で、ハケ下には湧水と池があり大きな鯉が悠々と泳いでいました。萩のトンネルはまだ
花が咲いていませんでしたが、野草園では珍しくオトコエシの白い花を見ました。また、9月2
日というのに、ヒガンバナが満開でびっくり。

満開のヒガンバナ
 街路樹の枝に鳥の巣(雛が二羽)

 殿ヶ谷戸庭園を出て、小金井方向へ広い道をゆっくり下っていくと、途中の交叉点の街路樹
の枝に鳥の巣があって雛が二羽いました。みんなで騒いでいたのですが、親鳥は不在。

 キジバトで、雛ももうほぼ一人前の羽が生え揃っていて巣立ちも間もないのではないでしょ
うか。
 
 途中、東京経済大学のキャンパスの裏口から入って,新次郎池を見学。ハケ下の湧水の
池で、大学の構内なので何の細工もなく、自然の泉と池がそのまま保たれているいい環境で
した。
         貫井神社と赤い欄干
 間もなく貫井神社。境内中央に湧水池があ
り、池の中の島には亀が山のように集まって
日向ぼっこをしています。

 その手前の池の水面はコウホネの黄色の
花に埋め尽くされていました。

 貫井神社から三十番神明寺を経て、東へ
薬師通りを歩くと途中に「はけ道」という喫茶
店がありました。

 何でもない普通の住宅のような店で、時間
があればちょっと一服という感じですが、
 
 あとで調べてみたら、 「土地柄にふさわしく湧水でいれたコーヒー・紅茶を出す店」で、使う
水は女店主が毎朝真姿の池まで汲みに行くのだそうです。 コーヒーの味はまろやかで一味
違うのだそうです。

                                        多摩31番天神山金蔵院 山門
 三十一番金蔵院は萩寺と言われるとおり、境内はハギに埋め尽くされています。

 殆どは白萩だそうで、中に赤紫の萩もまじっていました。まだ、花の季節には早く、チラホラと花が開き始めたところ。

 それでも黄蝶がヒラヒラと飛び廻っているのが絵になっていました。

 小金井小次郎の墓、小金井神社を廻ってまた金蔵院の門前から坂を上ると、これでハケの道とはお別れ。

 ハケ上の小金井駅前でめでたく打ち上げとあいなりました。今日は天気に恵まれて、最高
気温はほぼ30度。ひどい汗で大変でしたが、冷たいビールのうまかったこと。

 今回はハケの湧水をくまなく歩いた一日でした。
                                      /GND/









随 想 「国分寺に詣でて」

金 田  和 友

 
 国分尼寺と国分寺の跡に立ち、その規模の大きさを実感すると共に、千数百年前の朝廷
の遠大なポリシーに想いを馳せた。

 とつ国から伝来してきた仏教を「外国の神」として受け入れ、それを国教として流布し、国の
政治理念の中枢に据えようと考えた指導者達のことを思うひと時だった。

 この大事業があったがゆえに、やがて本地垂迹説が生まれ、更に日本独特の宗教観が醸成されてきたのかと思う。

 異教を排斥し、抹消しなければすまないと言う偏狭な信仰は、今の日本には見受けられない。

 先日明治神宮の大宮司の講話をお聞きする機会があったが「今世界は異教徒の殺戮が続き、終わりが見えない。
 世界中の宗教界の指導者に呼び掛けて、わが国の"互いを容認し受け入れる"とする宗教観を、伝え続けて世界平和の一助としたい」と言う趣旨の講話だった。

  古えを想いながら続く森の中に踏み入ったら、そこに現在の国分寺があった。

 規模は縮小されたとは言いながら、千余年前の東の国府の寺院としての風格を充分に遺していて、本堂の中で憩わしていただいた時は言葉で
は言いようのない感慨を覚えた。
 
 山門を辞して暫し、そこには多摩の湧水群のひとつ「真姿の池」が在り、今もこんこんと清冷な清水が湧き出ていた。

 古代人がこの地に一大拠点を構えた証左であろうか。

 この水が下って野川に入り、そして多摩川へと注いで大河となるのだ。 

  真姿の池に端を発する疎水沿いに「鷹の道」を未だ古えの想念で歩き始めたら、疎水の
中で少女達がザリガニ採りに興じていた。

 突然少年の頃の事と故郷を想い起こした。昨年の大患を乗り越えて、幸いなことにこうして
3万歩を楽楽歩く事が出来るようになった。偏に主治医と妻のお蔭と感謝しつつ,この好体
調の時に帰郷しようと思った。

 
 三年来念願の「六郷満山」の巡礼を実現するのは今だ!と心に深く思った。
 
 この数年いろいろのことがあった。恩人の死,賢弟の若死にとあい続いた。

 人の世は 偉人恩人 ところてん
         
           梢には 一葉も無し 夕陽みる

 故郷の霊地を巡り、自分を見直し、人生の後半に向かう心の足を鍛えて来たいと思う。国
分寺を訪ね、往古を想い、我が行く先を思う一日だった。        
                                          完
                                    








第6回トピック「 国分寺碑紹介 」
                              
 榎 本 奎 介

 
 天平十三年(741)三月、聖武天皇は災害・疫病・凶作等で疲弊した国を、仏教の力で救 
 おうと、国分寺建立の詔を出された。ここ武蔵国分寺もその時に建てられたものである。

 それが、元弘三年(1233)新田義貞鎌倉攻略の時、兵火に遭ったりして烏夕に帰した。

 現在残るものは礎石と布目瓦の破片のみとなった。薬師堂前に重要な碑がある。以下に
 その碑文を書き下ろし文で紹介する。
  
題額 「武蔵国府中国分寺碑」

苔むした府中国分寺碑
同左「武蔵国府中国分寺碑」の頭部

 在昔(むかし)、聖武の朝、釈教(仏教)を崇信し、詔を天下に下し、国毎に僧尼二寺を肇
造す(初めて造った)。

 一は金光明四天王護国の寺と曰ひ、僧員二十人。一は法華滅罪の寺と曰ひ、尼員十
人。国分寺と総称す各(おのおの)封田有り、国司其の租を歳収し、資給して之を養う。

 僧尼の員、欠あれば随って之を補う。凡そ国に水旱の変(洪水とひでり)あらば祷請して
之を救ふ。

 朝夕香火の事を掌り、仁王最勝王等の経を誦読し、災兵を弥(つくろ)ひ罪疾を遠ざけ、
国家の福祥を祈る。歴朝因って承け、其の制を改めず、史籍に徴(証拠)あり。爾来千有余
載(千有余年)、陵谷(山や谷)変遷し、諸国に其の跡を存するは十に二、三なし。
 
国 分 寺 講 堂 址
       国 分 尼 寺 跡 の 碑
 
 先王、郡県の制、詔令ある毎に太政官符を諸国司に下し、国司承って之を宣布す。

 国司の治むる所を古くは国府と称す。諸国往往、今に至るも猶府中と称する者あり。国分
諸寺は県官置く所にて、壱に(もっぱら)国司の節制(とりしまり)を受く。故に寺跡の今に存
するは、多く其の国の府中の界(区域)に在ると云ふ。

                                       楼門から国分寺本堂を望む
 武蔵国多麻郡府中国分寺は、相伝ふ護国の寺にして、滅罪の寺(国分尼寺)は今既に其の処を識らず(現在はわかっている)。
 府中の東なる江戸城をへだたること八十余里(六町を一里とした)、境壌(その土地一帯)は至る所蓋(これ)歴世詞人の称詠する所のむさ支野の地なり。

 丙子(1756年、宝暦六年)の春、余、府中に遊ぶ。主僧盛公(住職賢盛のこと)曰く、
 
 吾が護国精舎(国分寺)は法運の隆に当り、堂観壮麗にしてまことに巍然(ぎぜん)たる
一大刹(大きな寺)なりき。壊を成す(破壊される)に時あり。

 元弘の乱に一旦焚蕩し(焼失し)、新田氏再造の功(黄金三百両を寄進して薬師堂を再
建したこと)成ると雖も、兵革の世なれば終に古に復せず。尋(つ)いで復た消沈荒涼する
こと四百余載なり。

        国 分 寺 薬 師 堂
 茲に於て近く衆縁(多くの人々のたすけ)
を募り、新たに医王閣(薬師堂)を営み、
伝ふる所の瑞像(薬師如来座像)を安ん
じ、以て霊跡を表はさんとす。

 興復の任、某(それがし)敢へて当たら
ざるも夙志(かねてからの念願)を抑へて
以て已む可からざるなり、と。

 余、旧跡を歴訪し、往昔の壮麗を想見
し、遂にかの高岡に陟(のぼ)り、謂ふ所
の武蔵大野、方八百余里なるを観望し、
顧みて盛公に謂ひて曰く、上人之を勉め
よ。

 斯の野の広莫たる、前世、奥羽の道の経る所にして、草莽(くさむら)は天に際し、月日は
其の間に出入す。虎狼は後に従ひ、盗賊は前に邀(むか)へ、行旅は白日も警戒・畏懼(い
く)せざる莫し。

 方今(ただいま)四海は東に朝し(世の中は徳川幕府の時代となり)、鯨波(とき)は揚が
らず(戦いがない)。率土の内(日本国中)、戸口(戸数と人口と)は殷実し(さかんにみち
て)民力普(あまねく)存す。地にして墾さざるなく、田にして播かざるなし。

 古より草莽広莫としてむさ支野と称するの地、今、尽く(ことごとく)良田数千万頃(けい)と
なる。東に偏ること数十里、牙の縁界(いりくんだはての地)は半ば文王(中国周王朝の始
祖武王の父、古代の聖王の模範とされる)の囿(庭園)となり、邑落相比し(村村がつらなっ
て)、鶏狗の声は被此(あちらこちら)に聞ゆ。

 大道は砥の如く(平らかであり)にして都城に東通し、往来は絡繹たり(人通りが絶えな
い)先王の盛世に復すると雖も、今日の至理(最上の道理)を踰(こ)えず。

                                              国 分 寺 石 碑
 国分精舎、本は護国のために之を立
つ。故に尚ほ法運は国運とともに汚隆
(衰えることと盛んになること)すべし。
 
 此の至理、隆興の世に当たれば、之
を往昔の壮麗に復するは難しと為すに
足らず(昔のように復興できないわけで
はない)。上人之を勉めよ、と。

 銘に曰く、帝は恵日を捧げ、光は宇宙
を被ふ。渙(かん)汗(広大な)其の命、
金玉(金や宝石のようにすばらしい)其
の構。法鼓は四響し、霊鷲は並こう(な
らぶ)す。
 
 百六の数ありて(厄運の年に遭うこと)、劫火(大火)寇(害)をなす。威力亡ぶる若(ごと)
く、壌空(土と空)救はず、千祀(千年)寥ばく(むなしくはるか)として、草木鬱茂たり、茫々
たる曠野、豺狼(山犬とおおかみ)夜に吠ゆ。 

 紺苑(寺の別名)は淪没し(衰え滅び)、樵蘇(きこりとくさかり)は首を回らす(ふりかえっ
て昔を思う)。至誠は必ず応へ、願言は旧に復す。於戯(ああ)諸仏、我に霊祐(神のたす
け)を降せよ 。

 宝暦丙子春三月 摂津(の生まれの)服雄撰東都(の生まれの)河保寿書以上が全文で
ある。撰文の〔服雄〕は有名な儒者服部仲英(服部南郭の女婿。名は元雄、号は白貴、摂
津西宮の人)、書の〔河保寿〕は江戸の書家河原井台山(葛烏石の門人。名は保寿)であ
る。
多摩第一級の名碑である。

 出典:「多摩文学散歩」 "文学碑・墓碑を歩く" 横山吉男著
    1996年12月25日発行 有峰書店新社
                                  

       




第18回「多摩88ヶ所巡り」 コラム

「小金井小次郎について」
                             
  榎 本 奎 介


 
 文政元年(1818年)、下小金井村の名主関家の二男として生まれる。府中の親分藤屋
万吉に目をかけられ、次第に勢力を伸ばす。

 天保十一年(1840年)、小平の田折一家と小川一家になぐり込みをかけ、「二塚明神
前の大喧嘩」といわれる騒動を起こして知られた。

 佃寄場での服役ののち、安政四年(1857年)、三宅島に流された。在島中、井戸を堀
り、旱魃に悩む島民を救ったという。

 慶応四年(1868年)、赦免後は新門辰五郎の弟分となり、山岡鉄舟にかわいがられた
といい、盛時には、関東一円の身内の数は三千人を越えたという。

 歌舞伎「辰巳の小次郎」で知られ、浪曲、講談にも取り上げられた。明治十四年没、行
年六十四。

        
「小金井小次郎の墓」

  碑面には、山岡鉄舟書の「大雄院殿精允
 居士」と刻む。

出典:「多摩文学散歩」
"文学碑・墓碑を歩く"横山吉男 著

「小金井小次郎と天水」
 
 小金井小次郎が島(三宅島)に流刑されたのは、幕末、討幕運動が盛んな頃のこと。

 小次郎は島の人たちに慕われ、開拓に努め、中でも「小次郎の井戸」は島の生活を飛躍的に便利にしました。

 川の無いところでは、雨水を溜めて水を確保しました。
                                
                                  小金井小次郎追悼碑
 小次郎は、わき水の豊富なハケ(下小金井)の出身でしたから、真水の乏しい三宅島にあって雨水を溜める井戸(貯水槽)をつくりました。

 小金井市と三宅村が友好都市盟約を結んだのは、1978年のことでした。

「さくらとあじさい」
 
  梅雨のころ、みずみずしい、花弁の大きなガクアジサイの一群を玉川上水小金井橋の左岸で見ることができます。

 三宅島から贈られたもので、島にシダレ桜を贈ったお返しでした。

 昭和51年にみどりの監視員が衰退していく堤の桜を補うために植えたもの。この桜とアジサイの苗木が小金井市と三宅島の友好都市を結ぶシンボルとなって、

 交流会会報のタイトルも「さくらとあじさい」です。
 
出典:「小金井を歩く」小金井市市民部経済課 2002年 3月発行
                               







コメント 細目・横目・魚の目

細田 利三郎

 
 第6回「多摩八十八ヶ所巡り」は立川市、国分寺市、小金井市に広がる緑の多い武蔵野台
地、国分寺崖線(はけ)が舞台、六つのお寺の観音巡り。今回も天候に恵まれ、幹事の皆さ
んの骨折りでつつがなく巡拝できて、感謝感謝・合掌である。

 行程や参加者など、正規の紀行文は幹事役が出稿されると思うので、私はいつもの勝手
な雑言を記した。駄文・ご海容のほどを。

T.この地域の地理的条件は

@ 武蔵野台地と野川から多摩川をつなぐ河川段丘で、湧水箇所が多くあり、このようなとこ
ろを「はけ」と呼ぶが、そのはけ沿いを北から南へ約15キロの道程だった。

 河川段丘は立川から大田区田園調布付近まで30キロほど連なっていて、台地上は古くか
らの完成した住宅地、段丘下は新興住宅地に色分けされる。今回はその中の北半分といっ
たところである。

A 巡拝の道中は、武蔵野の面影が残る緑の多いところで、樹木は大木が目立ち(観音寺な
ど)、保存樹に指定されているものが目に付いた。今の時期、花木はサルスベリ、芙蓉、木
槿(栄緑地)が盛り、イチジク・石榴の実がたわわに実っている家もあって、もぎ取って食べ
たい衝動を抱いた。

緑が多く樹木は大木
サルスベリの花
     フ ヨ ウ の 花

 小さな実がついた林檎は珍しく、柿・びわや梨の実は間もなく収穫期になる状態。旧鎌倉
街道の雑木林の中にはクヌギの実が沢山落ちていた。

       国分寺から お鷹の道へ
B 国分寺までの道筋は、途中に植木の街の標識が出ているとおりの緑地の多いところで、雑木林中の下草には山吹が多い。

 お鷹の道から名水100選の真姿の池へと歩くが、この付近で販売していた、とれたて野菜や、蛍のすむ川の冷水(水気が欲しいときこれを手にしたときの気持ち良さ・川に入って遊んでいる子どもの姿もあった)。

 川沿いや川の中のヤブラン・かわにな・鯉など、或いは殿が谷戸公園の萩のトンネル(間も

 なく開花)コース などなど、いずれも興味大の散策だった。

U.ご住職の説話から

C 住職の哲学。住職は24時間寺にいるので、前々から自分の心の中で温めていたことを
決めて実行し、4〜5年継続している。
                                                 筆  地  蔵 
 それは、▼数珠=朝のお勤めで実行、▼筆=盆正月の
檀家宛挨拶状約700通を自筆で書く、 ▼箒=落ち葉、ち
り紙など。

 掃除が行き届いているとこれらは目立つ。境内に飾った
地蔵のお立ち台にこれに関連した次の文章が刻み込まれ
ていた。(正楽院)
 
 ・筆は万花を生ず 先人の書を見て 目と心を磨く

 ・今おがむ 天地いっぱい 只祈る

 ・掃けば散り 払えばまたも 塵つもり 人の心も    
                         庭の落ち葉も

V.巡拝で知ったいくつかの物語りや伝説 

D 500羅漢=釈迦の弟子の500人の羅漢。周梨槃特(しゅりはんどく)は、仏滅後、遺教
結集のため来会し、釈尊の弟子衆の一人に加えられた。性格は愚鈍、後に大悟したという。
 関連して、6日付朝日朝刊の記事 「茗荷」秋ミョウガが土の中から小さな手のひらのような茎を出し、てっぺんに白い花を咲かせている。

 お釈迦様の弟子に、しゅりはんどく(前記)という人がいて、自分の名前も覚えられなかったが、釈迦が教えた掃除だけを続けて精進し、遂には悟りを開いたと言う。
 その墓に生えた草がミョウガ(茗荷)で、彼が、書いて貰った名札を背負っていたことからこの名が付いたとされる。

 食べ過ぎると物忘れがひどくなるぞと、子供の頃に教えられた。生姜科の多年草。咲いた花を集めて梅酢に一夜漬け、精進料理のおしのぎに出した寺もある。
 
 中国、インドにもあるが、食用とするのは日本だけ。刻んで豆腐にのせ、インドの友人に勧
めたら匂いをかいで顔をしかめ、そこだけ箸で除けられた。今の時期は秋ミョウガ。花は県
内あちこちで咲く。みょうが 食べると馬鹿になる 転じて愚か者、馬鹿者

E 傾城の墓
 
 東福寺(国分寺市西恋ヶ窪)の境内にある。この辺りはかつて宿場町で、板東武士と花魁
の恋物語が聞かれたが、これはその一つ。

                                             東福寺の傾城の墓
 傾城墓由来から転写:ここは、その昔、奥州より鎌倉、京都に通じる要路に当たり頗る繁盛して数多の妓楼が軒を並べた。

 その中に夙妻太夫という遊女あり、秩父・畠山重忠の寵を受け、愛情密だったが、ある日重忠、源義経に従い平家の追討に出向いたおり、重忠は西国で戦死したと嘘を言い聞かせた者があった。
 
 彼女は悲哀のあまり自刃したという。この地 
 
の人たちは、その死を憐れみ、葬ったところの塚に松を植えて墓標としたという。その後数
百年を経るに従い、松は枯れ、塚は平らにされてそれが何処だったのか分からずじまいとな
った。

 そこで、登内の出身者、6世宝雪庵可尊翁は、旧跡が無くなるのを惜しんで同士と相談し、
ここに墓標を立て再び松を植えて傾城の墓とした。その後枯れたので今回復元松を植え、併
せてこの脾を立てその由来を記し墓標とともに不朽に伝えようとした。
 
 今もなお 朽ちせぬ名にぞ 新たなれ 松の操の 傾城の墓

W.横目(参加者の視点などから)
 
F 辻さんの辻説法 

 国分尼寺跡で沢山の礎石を前に、これは講堂の跡だ。 お祭りのときにはこの付近に幟(蕃)を立てるなどの説明。

 ジョークの高嶋さんが、すかさずこれが本当の辻説法=やんややんやの大喝采
 
 さらに辻さんから懇親の席で納経帳の日付けの有無について:あるお寺の住職の話によれば、本来日付けを付すものではない。
 
 
 お参りをしたことが大事であって、「いつ」お参りしたかは問題ではない(従って、当寺では
日付けは入れない)。納経帳は亡くなった折りに、お棺に納めて「あの世」に携えて行くもの
だ。最近は札所めぐり参拝者からの希望により、日付けを入れる札所も出てきた。

傾城墓由来石碑
28番東福寺納経帳
ベコニアの花

 来月予定の札所でも、日付けは「入れません」と言うところもあれば、「入れてもいいです
よ」と言うところもある由。(辻さんには、毎回、納経帳をとりまとめていただいており、改めて
お礼を申し上げます)

G 金田さんから懇親会の席で  吟行俳句のご披露 
  
 この坂を 越えれば いよいよ日本海 (駅そばの飲み屋がこの名前)
 
            素晴らしい 友に恵まれ ただ合唱   DAA 心の足を 鍛えけり

30番真明寺の山門
真明寺の納経帳
真明寺に咲いた紅蜀葵



トップへ 戻る 次へ