<ダイヤネット>
「多摩88ヶ所巡り」と道草
第1回紀行
平成15年3月4日
目 次
多摩 第一回 巡行記録 |
巌 隆 吉 |
多摩 第一回 紀 行 |
諏訪多 辰治 |
道草 「野川の鳥たち」 |
権藤 卓也 |
「三鷹大沢の歴史あれこれ」 |
巌 隆 吉 |
コメント(1)初参加の「感想」 |
細田 利三郎 |
コメント(2)多摩巡りの趣向 |
青野 淳美 |
第一回 多摩巡りアルバム 明細 |
第一回 多摩巡り札所寺院 明細 |
アルバム明細
巡拝札所明細
多摩第一回巡行記録
巌 隆吉
@ 日時:3月4日(火)09:00〜16:30 16:30〜懇親会
A 天候:快晴だが肌寒い日
B 参加者 (順不同敬称略)
青野、安部、飯沼、井出、井上、巖、榎本、太田、小田、金田夫人、児玉、小山、 権藤、斎田、助川、諏訪多、辻、東田、花牟礼、深澤、藤井、細田、松岡、松本、 以上 24名
C スケジュール
09:00 吉祥寺駅北側 東京三菱銀行吉祥寺支店西入口
09:20 1番 安養院
10:30 2番 延命寺 (五日市街道経由)
11:20 番外 禅林寺 (玉川上水経由太宰治、森林太郎墓所)
11:50 3番 井口院
12:00 〜13:00 昼食
13:50 4番 長久寺
14:30 番外 龍源寺 (近藤勇墓所)
14:45 休憩 野川公園 (水車小屋を経て野川遊歩道経由)
16:00 番外 深大寺 (だるま市開催中)
16:30 懇親会 深大寺山門前 門前そば
D 感想
全行程、27,000歩、約15kmを全員元気に歩くことが出来たことは大変嬉しいことでした。当初、街中を歩くので行列も長くなり、歩行も無理なお方も出るのではと大変心配していましたが、お天気も良くほぼ当初計画通りのスケジュールをこなすことが出来ました。
先ず、集合場所の東京三菱銀行では、大変寒かったのでキャッシュコーナーに警備員の諒解を得て入り、皆さんの到着を待つことが出来たのは幸いでした。
当日の朝は、底冷えのする寒さでしたが総合幹事青野さんの挨拶の後歩きだすと、身体の中からポカポカと温まり大変過ごしやすくなりました。
1番の安養寺では、住職自ら吉祥寺の寺町の由来と本尊建立の地は僅か75cm高い位置にあることや庚申塚を説明して貰い、八十八ヶ所スタートにあたり、この住職さんのご親切は、大変ありがたく感激しました。
2番の延命寺は随分離れているので、五日市街道の全く単調な道を長い間、歩くことになりました。太宰治さん森林太郎さんの墓所の禅林寺は通り道なので、敢えて立ち寄ることにしました。森林太郎さんが高位高官の身分をすべて捨てて、一人石見の人として死んで行きたいとの遺書を見て、明治の気骨を改めて知らされました。
3番の井口院は、私も地元にいながら、今回の下調べで初めてお参りしましたが、大きなお寺なのに驚きました。
4番の長久寺は 新しい本堂に通されましたが、これは天文台通り拡幅工事のために改築されたもので、昔は今の天文台構内にあり、北条と上杉の両軍激突の戦火で焼け、再建されていたものが、また明治末の天文台建設でまた移転、今にいたっているとのこと。このお寺の歴史も大変数奇に富んでいます。
近藤勇の墓所、龍源寺は、何れ土方歳三の墓所のある86番石田寺にお参りするのでこの際、お参りしてはとの榎本さんのご提案により、急遽お参りすることにした次第。野川公園前の近藤勇産湯の井戸とともに、幕末の動乱期を偲ぶことも出来ました。
龍源寺から、深大寺への野川の遊歩道は、緑と水のまち、三鷹の象徴でもありますので、通り抜けることにしました。途中、東京スタジアムや飛行場、さらに警察大学、外国語大学のビルも眺めながらの長い道のりでした。
深大寺は丁度『だるま市』の最中。2〜3人のお方は、だるまを求めておられました。来年もきっと願が叶い、お参りされましょう。
懇親会は、そば焼酎の蕎麦湯わりで痛飲。何時ものコースです。
以上、第1回当番幹事として、主として道のりを中心に記述しました.。皆さんからも、引き続き感想等それぞれコメントをいただければ幸いです。
多摩巡り第一回紀行
諏訪多 辰治
朝は天気予報どうりの快晴で冷たい北風の中での出発になったが、参加
24名全員無事完歩できたのも、幹事さんのコース選びを含め周到な準備と、きめ細かな事前の連絡等々によるものと、先ずは御礼申し上げます。参加者の殆どが昨年の秩父の経験者で健脚である。私は昨年の秩父の後、そのまま足を休めていたためか次の日まで足に軽い張りが残り、日頃の鍛錬の必要性を再確認した次第です。
秩父は主として野山の歩きで、四季折々に緑と草花などが楽しめた。
今回は玉川上水・野川遊歩道等から武蔵野の面影を残した雑木林・竹林・丘陵などが遠望でき秩父とはまた趣の違う巡拝でした。又、三鷹天文台など歩きながら見える周辺の建物・施設などの説明をいただき参考になりました。
太宰治・森林太郎・近藤勇の墓所も、この様な機会があったればこそ訪れる事が出来ました。深大寺には何度かお参りした事もありましたが、3月3日、4日の2日間しかないダルマ市は初めて。買ったダルマの片目に、まずは阿吽のあ≠フ字を入れ、来年うん≠フ字を目に書き入れて納めるとは知りませんでした。
初参加の小山さんは、私が三菱化学の新入社員で北九州・黒崎の独身寮に入った時の寮の先輩で、今回40年振りの再会。当時を含め色々な話題で時間の経つのが早く感じられました。
歩き・休憩・食べ・飲みながらの触れあい、勿論お寺・史跡・自然との触れあもありリフレッシュの1日でした。
多摩第一回道草「野川の鳥たち」
権藤 卓也
今回の88ヶ所霊場巡りは、札所のお寺への参詣は勿論だけれど、その道すがらできるだけいろいろの名所旧跡をも巡って道草を食うという欲張ったプランになっ
ている。それぞれの見所はそれぞれ皆さんが書かれると思うので、私はそのまた道草、途中で目に触れた草や鳥のことなどをご報告したい。
吉祥寺北口のアーケード商店街を歩くと、なんと賑やかなお店に並んでお寺さんがあった。私は毎週1回はこのあたりに来るのだが、こんなところにお寺があることには気が付かなかった。月窓禅寺。残念ながら門が閉じていて、そのままパス。
第1番安養寺は、五日市街道に面する入り口は広くはないが、参道の両側には牡
丹が植えられていて、緑色の若葉の芽が大きく膨らんでいるのが春を告げていた。
5月にはすばらしい花がみられるだろう。境内の大きなカシの木(?)にヒヨドリ
が数羽、飛び回ってピーヨピーヨと騒いでいる。近頃、どこでもヒヨドリが随分増えた
ような気がする。五日市街道を第2番延命寺へ。途中右側に成蹊学園のケヤキ並木を見る。成蹊学園は岩崎弥太郎ゆかりの学園で、その関係で卒業生には三菱系の人が多い。構内には桜が多く、4月のはじめの日曜日には桜祭りが開催される。何度かお誘いを受けて参加してみたが、まことにすばらしかった。
延命寺から南の方向へ住宅の続く道を歩き、玉川上水に至る。五日市街道沿いでもそうだったが、途中の家々には、白梅や紅梅が多く今が満開の季節。
玉川上水はこのあたりでは巾3、4mで水の流れは少ない。ところによっては落ち葉と枯れ木で埋められてしまっている。上水の両側は明るい雑木の林や並木が続き、気持ちのいい遊歩道になっている。ここで、安養寺からはじめて鳥に出会った。シジウカラが2羽、枝移りしながら遠ざかっていった。今までのところ、鳥の姿をほとんどみかけることがなかったのも不思議である。
けやき橋で玉川上水と別れ、三鷹通りを南へ禅林寺へ向かう。ここで太宰治と森林太郎の墓に詣でた後、連雀通を西へ井口院へ。このあたりは家々の敷地が広くゆったりとして大きな木もあり、昔の農家の形がまだ残っているようだ。
第3番井口院は、広い境内に数多くの仏様や七福神のお堂などがあって賑やかであった。ここでみんなが集まって見ていたのは、黄色の房が小さい毬の形になった花をびっしりと付けた3,4mの木で、あまり見かけることはない珍しい木であった。図鑑を開いてみるとサンシュユであることがわかった。サンシュユは山茱萸で、中国原産。早春に咲くのでハルコガネバナ(春黄金花)とも言われるという。
井口院から南へ、ずいぶんシャレた集合住宅などのある道を長久寺へ。途中壮大な井口家の墓地を見る。井口院といい、またこの付近の地名が井口でもあり、井口家はこのあたりの大層な家柄であったのだと納得する。
幼稚園の子供たちが賑やかに元気に遊んでいる第4番長久寺をあとに、近藤勇の墓のある龍源寺へ。お寺へ入るすぐ前で野川を渡る。橋の上から見下ろすと川の水の上にはカルガモの群れが、水の中にはずいぶん大きな立派な鯉の群れが泳いでいて、豊かな自然が残してあるのがわかる。誰かが、あんな大きな鯉はうまくなさそうと呟いていた。
龍源寺から近藤勇の生家の跡を経て都立野川公園の管理事務所で休憩。ここからいよいよ野川の遊歩道に入る。公園の入り口を出て、狭い坂道をぐにゃぐにゃと下ると水車小屋を残した農家があって、大事に保存されているようだ。残念ながらその水車を見ることはできなかったがその少し先の野川沿いに小型の水車があって、水の流れが足りないのか廻ったり止まったり。
ここから3kmほどは野川の両岸の土手のよく整備された遊歩道を下流に向かって歩く。川の右岸は遊歩道、左岸はサイクリングロードらしい。道のツツジなどの灌木の植え込みや、川に差し出た大きくのびのびと育ったサクラの枝など、実に自然によく手入れができていて、三鷹市というのはなかなかやるわいと感心しながら歩く。両岸の土手の間隔は数十mか。見下ろすと緑の草原の河原の真ん中を2、30mの幅の野川が流れている。この川の中と両側の河原にいろいろの鳥が見られるのが興味があった。
川の水の流れの中には鴨の群れが所々でみられる。カルガモが一番多い。数羽づつの群れで、これは雌雄が全くわからないけれど、偶数の群れが多いような気がする。中程で、オナガガモがカルガモの群れに入っているのに会う。オナガガモは胸が真っ白で大きなエプロンをかけているのでよく目立つ。尾が尖って長いのでオナガガモなのだが、遠くからだとはっきりとはわからない。カルガモと違って北に渡るカモなのだが、ずいぶんおそくまで残っているものだ。そういえば、マガモも一つがいだけが残っているのがみられた。
河原の川岸には白鷺が佇んでいるのがちらほらと見える。嘴が灰色なのでコサギである。これは群れをつくらずに、一羽だけがひっそりと水の中をのぞいている。
土手のサクラの木には、時々シジュウカラの声が聞こえ、2、3羽の姿も見えた。
時にポツリとキジバトの姿が見える。河原で餌をとっているようだが、よくはわから
ない。最後に野川に別れを告げるころに、ドバトが数羽群れているのが見える。多少川の環境が違うのだろうか。
今回の巡拝では、安養院のヒヨドリと、玉川上水のシジュウガラ以外にはここの野川でしか鳥に出会うことがなかったのは淋しかった。最後の深大寺では、達磨市の賑わいのせいもあるかもしれないが鳥の気配がなかった。ただしかし、深大寺の裏山の奥に入ると、意外なことに中西悟堂の胸像に会うことができた。日本野鳥の会の創始者であり、野鳥という言葉をはじめて使い、探鳥会を初めて催した先人である。昭和20年代に三菱化成の研究所にいたときに、中西翁のお話を聞いたことがあって、私が鳥に関心を持ち始めたのもこれがきっかけの一つであった。
まだ春も早い季節なので、道草の姿もまだ若い。途中で、金田夫人がホトケノザを見つけた。春の七草のホトケノザは、田んぼに生えているコオニタビラコの若い苗のことだが、このホトケノザは長く伸びる茎の周りにつく葉の形が、茎を取り囲んで仏様の蓮華座のように見えることからつけられた名で、そのうちに道端の至る所で見ることができるようになる典型的な雑草の一つである。
次の第2回の巡拝では、どんな道草に出会えるかを楽しみに今回の一応の締めくくりとする。
/GND/
多摩巡り第1回随想
「三鷹大沢の歴史あれこれ」
巌 隆吉
〇 はじめに
去る平成15年3月4日、多摩88ケ所巡りで、一番安養寺から4番
長久寺までの第1回の案内を担当しました。
この第1回の随想を書けとの要請に接していたが、今まで保留していました。一案として、最後に解散した関東で一、二を争う古刹深大寺の歴史を再調査するのも如何かと考えていた矢先、たまたま昨年末地元の『大沢まちづくり研究会』より、三鷹の大沢(昔の多摩大沢村)の歴史を研究調査の上、その研究会の席上で発表願いたいとの要請がありました。そこで、大沢地区の遺跡の実地検証を進めながら、インターネット検索や三鷹市史、遺跡調査会資料、幕末維新村絵図、富士重工社史等参照、併せて古老の話も聴取、漸く取り纏め本年1月発表しました。これらの骨子をあれこれ再編集の上、報告の責めを果たすこととします。
第1回、歩いた距離は、約15km、約27,000歩。武蔵野市から三鷹市そして調布市の一部を歩いています。その第4番札所長久寺から新撰組近藤勇の菩提寺龍源寺、それから野川公園、水車小屋、野川の右岸を歩き、漸く深大寺に着きました。このあたりが、すべて昔の大沢であり、現在の三鷹市『大沢地区』となっています。
〇 水と緑の大沢・・・石器から縄文時代の遺跡も豊富
現在の三鷹市中枢部の大部分は、江戸時代徳川家の『お鷹場』であり、どちらかというと原っぱでありました。でもこの大沢地区は、太古よりハケを源泉とする抱負な水に恵まれ、石器時代、縄文時代、さらに江戸時代と多くの人々が住んでいた痕跡を随所に残しています。この歴史を見て、人間にとって如何に水が大事かとしみじみと痛感されます。 三鷹市が『水と緑のまちづくり』を標榜していることも尤もだと思っています。三鷹市遺跡調査会も、道路や建物建設の都度、このあたりを発掘調査していますが、まさに遺跡の宝庫、考古学のメッカ。遺跡として残されているものには、『縄文住居跡』『横穴古墳』江戸時代の『水車小屋』などがあります。
○ 戦国時代・・・国立天文台のある『沢の台』は古戦場
戦国時代初期、小田原北条方と深大寺を根城としていた関東上杉方が、沢の台で戦い、深大寺側の上杉方が惨敗、川越まで退却。その後、北条氏康の『川越の夜打ち』という巧みな謀略によって、上杉方も敗退し、それから、このあたりは北条氏康の天下となっています。
さらにその後、小田原北条も豊臣秀吉の小田原征伐で滅亡。このあたりでは、天文台とともに古戦場ととしての『沢の台』の歴史が長久寺の経緯とともに語り継がれています。
〇 新撰組を生んだ多摩の風土
この大沢地区を含めた多摩地区には、この近くに住んでいた近藤勇、さらには日野の土方歳三のように剣を学ぶ人が多く育っている。これは戦国の世に敗れた武田や北条の残党が移り住んだので、自ずと尚武の気風が生まれたといわれています。近藤勇の新撰組のことは、目下大河ドラマで放映中であるので、いまさらこれ以上は差し控えます。今年は、特に近藤勇の菩提寺龍源寺(添付スケッチ参照)や近藤勇の産湯の井戸など訪ねる人が多い。また、いたるところに、新撰組ののぼりがはためいており、新撰組ブームは、今年一杯続くことでしょう。
〇 『国立天文台』
さて、翻って近代の歴史に入りましょう。
現在、大沢地区中央に国立天文台がある。明治41年以降この地区住民は、当時の東大東京天文台の誘致に並々ならぬ尽力を重ね、遂にその15年後の大正13年(1924年)その誘致に成功しています。この誘致促進のため土地の提供、民家の移転等地元としても犠牲を払って協力の賜物でありました。
今でも、天文台の支援を得て構内で町会の消防演習開催等、お互い強い絆で結ばれています。天文台は、随時一般の見学を受けており、さらに毎年秋一般公開があり、多くの来場者の天体観測等で賑わっている。
なお、最近は国立天文台と東大天文系の二つの系列で運営中。
今の子供たちは、太陽が動いている天動説を信じる者も多いと報道されている位天文学には全く疎いようです。正しい天文知識学習のため、この天文台と大いに親しんで欲しいと思っています。
〇 『中島飛行機』(現在『富士重工』と『キリスト教大学ICU』)
なお、町内に富士重工三鷹製作所があります。その歴史を語るためには、中島飛行機とその設立者、『中島知久平』のことに触れざるを得ない。中島知久平は、さきの大戦中現在のICU泰山荘(添付写真参照)に住んでいました。このお方は、色々と調査する度に、大変な逸材だったとつくづく思います。海軍機関学校を卒業しての海軍時代『大艦巨砲主義は国を滅ぼす。これからは飛行機の時代』と宣言、海軍を退官、大正6年僅か9名で当時の栃木県太田町に『飛行機研究所』を設立、幾多の苦難を経て、『中島飛行機』として大発展しています。まさに、現在のベンチャー企業のはしりといえましょう。昭和16年から昭和20年の大戦中、その生産量は機体で日本の28%、発動機で日本の31%の多くを占めていた程だった。その歴史を見ると、昭和16年、この大沢地区で約60万坪の用地を確保して、『中島飛行機三鷹研究所』を設立、現在残っているICUの本館をその研究所本館として社内から優秀な人材を集めて技術開発のセンターとしていた。
この研究所から、B29邀撃用に加給器をつけた邀撃戦闘機キ87を試験飛行、さらにキ115(剣)の試作完成と逐次軌道に乗りつつあった模様。
特筆すべきは、米国爆撃のために5000馬力×6、3万馬力の『富嶽』という巨大機の設計であった。古老から聞くと、エンジンは完成したが、機体の設計は未了で、大戦末、機材不足もありまぼろしの飛行機となっている。それにしてもまさに気宇壮大。戦後、敗戦国日本の航空機産業禁止という米国の圧力もうなずけよう。この中島飛行機も敗戦により、55万坪をICUに譲渡、残りの5万坪で、富士重工三鷹製作所となり、戦後スバル等の小型車、約35,000台を生産、昔からの気概の一端を披露しています。
〇 調布飛行場・・・戦時中帝都防衛第244戦隊駐屯地
中島飛行機の歴史を見たので、それと関連する調布飛行場の歴史にも触れたい。この調布飛行場の広大な敷地は、現在三鷹市、調布市、府中市に属している。そのかっての陸軍の正門と一部の施設は、この大沢地区にある。この飛行場は、羽田に次ぐ飛行場として当時の東京府が開場。運輸省、陸軍省とともに約180万坪を手当て、その後大東亜戦争の勃発によって帝都防衛の基地となり、第244戦隊が駐屯、米軍機B29、73機を含め計101機撃墜の大活躍をしている。(詳細は調布市在住櫻井隆氏のホームページ参照。ヤフーから244fと検索すると244戦隊史が閲覧可能)なお、次のような陸軍の遺跡や戦跡が残されている。当時の陸軍飛行場の門柱(三鷹市の史跡として保存中) 戦闘機掩体壕(三鷹市が公園化して史跡保存の見込み)(添付写真参照)高射砲陣地跡(有志が記念碑を設立、保存中)
今回、私がこの調布飛行場の歴史を調査して、最も驚いたことは、この244戦隊に陸士の同期生5名が赴任していて、内4名が戦死。その4名とも奇しくも同じ幼年校や同じ区隊で寝食をともにした仲であったことだった。この中には、沖縄特攻で戦死した友も含まれており、この近くに住むようになった私としても、その絆に驚くとともに、今更ながら彼等の過ぎし日のことを後世に語り継ぎたいと思っています。
現在の調布飛行場は、離島向け航空便や報道用小型機等の基地として、その役目を果たしています。
〇 むすび
多摩88ケ所巡りは、それぞれの札所の歴史はもとより、その付近の歴史についても学ぶことが大変多い。この度、改めて第1回に廻った大沢地区の歴史を回顧しますと、古代から現在にかけて多くの人々の生き様を知ることが出来ました。
特に、近代では天文台、中島飛行機、富士重工、キリスト教大学ICU、調布飛行場と時代の流れとともに貴重な歴史を秘めていることを知り感銘を受けています。これからも、お互い相携え、郷土から日本さらに大きくは世界の歴史に関心を持ち、それを掘り起こして先人の偉業を偲び、それを糧として多少なりとも社会のためお役に立ちたいと思っています。
以上
多摩第一回コメントその1
多摩88カ所霊場巡拝(初参加)の感想
細田利三郎
見出しの巡拝について記憶が薄くならないうちにと、僭越ながらダイヤネット古寺巡りへ最初に投稿しようとしたら、このページは全て削除されていると言うことだったので、何処へ出稿すれば良いのか分からぬまま、井戸端会議へ感想文を投稿した。当番幹事の巌さんから、新米の私が早速記事を出してくれて嬉しいとのお褒めを戴いた。ただただ恐懼・、恐縮するばかりである。
巌さんからは、自分が「古寺巡り」にまず記事を入れるから、そこへコメントをしなさいとの指示を戴いた。大先輩からのお心尽くしであり、巡拝の歴史も知らない無知を省みず、ひとこと付言させていただいた。内容は、前記の井戸端会議の記事を手直ししたものである。最初に、このような企画が長く続けられているお陰で、DAA会員相互の懇親・友好に大変な効果があること、今まで存じ上げなかった多くの皆様と気さくにおつき合い頂けること、そのような場を作られた代表・幹事の皆様方にお礼を申し上げたい。スケジュールや寺社に関する感想・内容は別記されているので、それらの部分は省かせていただいた。井戸端会議への投稿内容は次のようなものである。
@ ひとことで表現すれば、感動・感激した。「参加して本当に良かった」のである。
参加への動機付けを与えてくれた安部孝さんに礼を申し上げる。彼から、昨年、板東33カ所巡りのCDを戴いたが、その中に巡拝の記録、900枚ほどの画像や納経帳などが入っていて驚かされたこと、折々の巡礼話を聞き、楽しい活動を羨ましく思っていたことなど、が動機となった。
A 大先達の行動・振る舞いに頭が下がった。具体例を列挙してみる。
● 健脚ぶり==27千歩、約15キロを楽々完歩。日頃の体力保持への努力
● 周到な下準備==お寺や会席場所の予約・スタート前の解説など。当番幹
事 の巌さんはじめ幹部(青野・榎本・権藤さんなど)の皆様の何回もの下見・
段取りなど(巌さんは前日も含め都合3〜5回は検分した、何処を歩いたらよ
いかを考えながら、自転車ですいすい回られたという)
● 撮影==ポイントでの備忘・記念写真など 重い三脚持参でも楽々と
● 博識ぶり==樹木(サンシュウなど)、天文台、玉川上水・野川、森鴎外・太宰 治・近藤勇の墓地、深大寺、だるま市などの歴史、いわれなど。 (金田夫人
松本さんの花卉、樹木への思い入れ、権藤代表の辞書持参での説明など)
● タレント性==翌5日、DOCOKAI席上で助川さんから武蔵野観音巡りCD作
成 のもと絵作成などを拝見(スケッチ・画像の取り入れなど)
B 周辺地域への目覚め
自宅から20キロ四方くらいの距離内でも神社、仏閣、公園、墓地など種々の歴史的・風致的な施設があることを教えられ、今まで気付かなかったこれらへの関心。
C 仏像(木仏・石佛)の見方を実地で勉強できたこと
2月27日、DOS会で川崎紀明さんの講演を聴く。今回、如来・菩薩・明王・天部など弘法大師が広めたこれら仏像を検分。今まで漫然と眺めていた神社・仏閣への視点が広がる。
D 今後への願望
多摩88カ所霊場の全行程を完走して、納経帳の屏風絵を作りたい。
付記:深大寺そば屋でおいしかったもの==きゃらぶき・ぜんまい。
以上
多摩第一回コメントその2
多摩巡りの参加者とその趣向
青野淳美
今年から再来年にかけて、東京都を2分して西に所在する「多摩88ヶ所巡り」がいよいよスタートしました。申し込み登録者は、2000年から始まった秩父、坂東、午歳ご開帳秩父と3年にわたる観音巡りの体験者「楽網ウォーカーズ」の面々29名に、この多摩巡りからの新たに加入された方2名を含めて合計31名であります。
今回の多摩巡りには、趣向が二つあります。一つは札所寺院に加えて、その地域の名所旧跡を訪ね歩くこと。もう一つは、各回ごとに当番幹事を決め、当番幹事はその回のスケジュールを立案し、当日の行事一切を取り仕切るという申し合わせであります。
第1回の当番幹事は、地元にお住まいで、DAA初代運営委員長の巌さんが指揮を執られましたが、綿密にして周到なその采配は、多摩巡りのスタートを飾るに相応しい誠に見事なものでありました。
撮りましたデジカメ写真の内 下記 5枚をライブラリー「写真館」にアップしますのでご覧ください。/ao/
第1番安養寺本尊「不動明王」第2番延命寺「本堂」第3番井口院「集合 写真」「近藤勇碑」と龍源寺「だるま市」の深大寺